七夕では1年に1度、織姫と彦星が会うことのできる日とされています。
二人は天の川を隔てていますが、
その織姫と彦星は、どこにあるのでしょうか。
また織姫の星の星座には、また別の物語がありますが、
ここでは織姫と彦星の天空での位置と、
織姫の星座にまつわる話をご紹介します。
目次(複数ページに分かれた記事もあります)
七夕の織姫と彦星 天空のどこにいる?
七夕の日には、織姫と彦星が1年に1度会うことができると伝えられています。
その織姫と彦星の、星の場所になりますが、
織姫は、こと座のベガという星が、
彦星は、わし座のアルタイルという星になり、
夏の明るい星で構成される「夏の大三角形」と言われる2つの星が、
ベガとアルタイルになります。
(出典「photoAC」)
天の川をはさんだ上にあるのが織姫こと、こと座のベガで、
右側には彦星こと、わし座のアルタイルがあります。
(もう一つの白鳥座の左端にあるデネブという星の三つが、
夏の大三角形と呼ばれる星になります。)
昔の人たちはこうした星空を眺めて、想像を膨らませて、
織姫と彦星の物語が出来たのでしょう。
ちなみに地球から織姫、ベガまでの距離は、25光年。
彦星、アルタイルまでの距離は、16光年。
光の速さで向かったとしても、それぞれ25年、16年かかることになります。
逆に言えばそれぞれの星から届く光も、それだけの時間をかけて地球に届いていますので、
現在の私たちは、
織姫、ベガの25年前の姿を、
彦星、アルタイルの16年前の姿を、
それぞれ見ていることになります。
二人が同い年であれば、私たちには織姫の方が、若く見えていることになりますね。
七夕の時期の、織姫と彦星の位置は?
星座の位置については、スマホの場合はアプリをご覧いただくか、
以下のサイトをご参照ください。
↑こちらのページの左側から、「時刻設定モード」で各月ごとの星座の位置を、ご覧いただけます。
↑こちらのページでは、左側で日付などを設定の上、左下の「上記の設定値で表示」をクリックすると、
その設定の日付や時刻での星座の場所を確認することができます。
またご存知のように、東がEASTの「E」、西はWESTの「W」ですので、
地図を見る時と上空を見上げる時では、東西の方角が違いますのでご注意ください。
これは地図を見る時には、上から地上を見ますので、
地図を見る時には、東が右、西が左になりますが、
下から天空を見上げる場合には、左右が逆になることになります。
こちらの図を裏にすると、
東西=左右が逆になることがご理解いただけると思います。
必要のない説明だったように思いますが、
地図と同じように、先ほどのサイトをご覧いただくと、
見えなくなるかもしれないと思い、念のためにご説明することにしました。
ただ7月7日は、旧暦であれば現在の暦より、およそ1ヶ月ほど遅いとされていますが、
現在の暦では、梅雨時と重なってしまうことが多いですので、
七夕の日には、織姫と彦星を見ることは、難しいのかもしれません。
織姫の星座にまつわる話
織姫と彦星は、結婚をして怠けるようになったので、
怒った神様から引き離されて、1年に1度会うことを許されることになりました。
この話は中国の物語になりますが、こと座やわし座は
ご存知のようにギリシャ神話から取られた名前で、
彦星のアルタイルのある「わし座」は、ゼウスが変身したワシの姿で、
織姫のベガのある「こと座」の「こと」は、
ギリシャ神話ではオルフェウスの「竪琴」だと伝えられています。
そのオルフェウスは竪琴の名手で、エウリディーケという美しい女性と結婚しますが、
ある時、妻のエウリディーケが毒蛇にかまれて亡くなってしまいます。
嘆き悲しんだオルフェウスは、冥界の王ハーデスの元におもむき、
エウリディーケを地上に戻して欲しいと強く願い出ます。
首を縦に振らないハーデスに対して、竪琴の演奏を聞かせると、
その音色の美しさに魅了されたハーデスは、
「地上に着くまでエウリディーケの顔を見てはならない」と約束した上で、
エウリディーケを地上に戻すことを許すことにしました。
二人は地上に向かっていましたが、光が見えてもう少し、というところで、
オルフェウスは、エウリディーケの顔を振り返ってしまいます。
すると、たちまちエウリディーケは冥界へ戻され、
再びハーデスに願い出ても、聞き入れられることはなく、
悲しみに暮れたオルフェウスは、竪琴と共に身を投げて亡くなったと伝えられています。
そして川に流れていた竪琴を、ゼウスが拾い、
この竪琴を星座にしたのが「こと座」だと伝えられています。
終わりに
七夕の話と、こと座の物語には、偶然にも悲しい物語がありますが、
恋愛は、周囲に認めてもらえるように慎むことも必要だったり、
どうしても最後の別れが訪れますので、
その時に後悔しないように、お互いを大切にするべきという教訓が、
そこには含まれているのかもしれません。